 |
|
| 文:岩 本 嘉 明 |

|
 |
全国でもチョット珍しい数字の地名“十三(じゅうそう)”。北大阪一の交通の要所として知られる十三は、中堅・中小企業の多い商工業地として、またアフターファイブを楽しむサラリーマンの憩いの街としても全国的に知られています。
私はここで生まれ、学び、そして勤務地として永年過ごしてきましたが、時間の余裕ができた機に“十三”を少し遡ってみました。
新たな発見や出会いがあり、改めてより身近な街になりました。 |
|
| なんで十三やねん |

<木造のころの十三橋> |

<阪急十三駅(昭和19年)> |
|
|
十三という地名のいわれについては、古くからいろいろな説が言い伝えられてきました。
まず、広くいわれているのが、「むかし淀川には多くの“渡し場”があり、上流の淀の渡し場から数えて13番目の渡し場がこの辺りにあったんでいつの間にか地名になったんや」という説。また、「この地には戦国時代、戦いに負けた武将と家族等を地元の人々が供養した“十三塚”があったらしいんや」とか、「この辺りは海に近かったんで潮の満ち引きのたんびに見えかくれした小島が仰山あり、それらをまとめて“十三島”と言ったんでその名残からや」という説。そして「むかし大坂は西成郡と東生郡に分けられ、摂津国西成郡の南端(今の西成区)を起点に1条とし、北に6町毎に区分けして数えると丁度13番目に当たるところに十三があって条里制に繋がるんや」という説等が言い伝えられてきました。どれも確かな記録がないようですが、私は次のような点から条里制説が有力と思います。
当地区に残されている[中津町史]に「我が西成郡は南より北に幾条と数えしにて、南に九条村、北に十八条村ありて、“十三”はその中間に介在せり。更に試むるにこの地は九条村より北に20町、十八条村より南に24.5町なるべし。されば“十三”は十三条の略称の遺存なることあきらかなり・・・。」と記されています。今大阪市に西区九条、淀川区十八条という町名が残り、チョット前まで西成区に四条という町名も使われており、条里制の名残の地名であります。
そして、「新淀川改修以前ニ於ケル中津町全図」という地図を広げますと、同町成小路村(なるしょうじむら)に“字十三”があり、すぐ南隣の光立寺村に“字十三の前”という地名があります。このことは南を起点にして数えている何よりの証拠であります。また、その少し南東には「八の坪」という小字名も確認できました。これは条・里・坪をもって土地を表示した地番法の名残と思います。 |
|
| こんな十三 |

<十三交差点(昭和9年)> |

<十三交差点(昭和39年)> |
|
当金庫40周年記念誌(昭和39年4月発刊)より
画像をクリックすると大きくなります |
明治の中ごろ、中津川の南岸にあった“十三”は、豊かな農業用水に恵まれ、小川が縦横に走り小船が往来するという牧歌的な農村でした。原っぱや堤には、一面に菜の花やレンゲ・タンポポが咲き、大阪の町中から花見や摘み草を楽しむ人々で賑わったところでした。そして、ここ十三の北のはずれには中津川を対岸の神津村字堀(十三公園の東辺り)へ渡す“十三の渡し”があり、西国から江戸や京へ行く人々で賑わっていたと記されています。
この地域は古くは、南北朝期から戦国期にかけてしばしば戦場となり、康安元年(1361)には佐々木秀詮(ひでのり:摂津の守護
佐々木道誉の孫)が神崎川を渡って当地に入り「中津川の橋詰」で南朝方の和田、楠木軍と戦って敗れたという記録があります。(太平記より)
また、地理的状況から推測すると、織田信長が石山本願寺との戦いで野田・福島の砦を引き上げるときに通ったり、豊臣秀吉が有馬温泉での湯治の行き帰りに渡った可能性等も充分考えられますし、西国の諸大名も参勤交代には必ず利用していたと思われます。 |
|
| ここが十三 |

<昭和10年代の十三の地図/中津第三尋常小学校卒業生による>
(画像をクリックするとPDFファイル212KBを開きます。)
|
中津川の南岸にあって“大阪府西成郡中津村大字成小路字十三”と呼ばれていた十三。水量が豊富で度々の大洪水で住民を困らせていた中津川は、明治31年に大改修の結果、川筋を大幅に変え安心できる新淀川として生まれ変わりました。しかし、周辺の多くの村々が川底に呑み込まれ“十三の渡し”で親しまれてきた“字十三”も新淀川の底に沈み消えて無くなりました。
土地の名は地域の人々の文化遺産ともいわれ、その土地の姿を写し出すものですが、十三という地名は時代の流れを受け、地域環境の変化により消え去りました。同地にある天正15年(1587)草創の圓稱寺(浄土真宗)の庭には、「淀川改修中津村旧址記念碑」(明治31年建立)の石碑が佇みその後の町々を静かに見守っています。
淀川の改修工事が完成すると大阪北部の開発がはじまり、明治43年4月に箕面有馬鉄道(今の阪急電鉄)が開通し、新淀川の北岸の堤防上に駅が設けられ“十三駅”という名前が使われました。川底から抜け出し、新たな“十三”が生まれました。(駅舎はその後現在地に移っています)
その後、一部残った中津町大字成小路地区は、大正14年に“東淀川区十三南之町”として隣接神津町の“十三東之町・十三西之町”とともに大阪市域に編入され、正式に“十三”という町名が認定されました。当地にある大阪府立北野高校は昭和6年に元中津川の廃川敷に建てられました。なお、十三信用金庫(大正14年設立当時は有限責任十三信用組合)の設立の動機の一つに、“十三”が大阪市域に編入されることを記念する意味もあったと記録されています。このように小字名として生まれ、今では町名や地域全体にも使われるまでに成長し親しまれている十三。誇らしい大きな地名といえましょう。
十三のあった成小路という地名はなくなり、今は新北野(しんきたの)と呼ばれていますが、同地の成小路神社、十三公園内にある元成小路国民学校(元中津第三尋常小学校)の記念碑に僅かに成小路の名をとどめ歴史を語り伝えています。(十三信用金庫OB) |
写真提供:丸橋太一、阪急電鉄、
|
|