シリーズ2


目次
広尾町
十勝港
黄金道路
広尾町図
大樹町 砂金掘り
晩成社跡
大樹町図
忠類村 ナウマン象
チョマナイ山
忠類村図
花のプロムナード
豊頃町 大津
二宮地区
豊頃町図
浦幌町 浦幌炭鉱
十勝太遺跡群
浦幌町図
あとがき  
 
広尾町
■十勝港
1988年夏。えりも岬につづく人口約1万5千人の小さな町、広尾町で海洋博覧会が開かれた。人あつめの目玉となったのは、四頭のラッコと青函連絡船の石狩丸だった。
石狩丸は、十勝でただひとつ重要港湾に指定されている十勝港に係留され、みなとが開かれて初めての洋上ホテルとなった。みなとはいま整備の真っ最中で、大型船が入港するのは珍しい。まして太平祥が漆黒につつまれてしまう夜に、窓という窓から華やかな光の帯を、眠りに人ろうとする街にむけて投げかけた船など、まったくなかった。

海に陽がおちた今こそ
あたらしいみなとの夜明け
ひかる波がしらをたどっていくと
はるかフィジーやカナダにつづいている
光の帯につつまれて
山のかなたへとどく会話は
明日の きみたちのもの
きらびやかな光の帯は
この船からでて 船のものではない
あたらしい街をつくり
あたらしい人と出会う
きみたちのもの

1万5千トンバースが完成すると、フェリーや外国の商船、豪華客船がやがて入港するようになる。石狩丸は、そんな町民の願いを知っているかのように、みなと町広尾の玄関口を、明るい光の帯でつつんでいた。
十勝港はむかし、広尾港といった。十勝に開拓のクワがおろされる以前から、和人がここを訪れ、漁業やアイヌ人との交易をおこない、十勝の玄関口となっていた。

ふるさとの木
みなとを見おろす街の通りのすみに、「十勝文化発祥の地」と刻んだ碑が建っている。そこからほど近いところにある十勝神社は、寛永年間(1630年ころ)から、この地を訪れたひとびとの、心のよりどころとなっていた。
十勝神社が建立された年の、確かな記録はない。しかし、寛永12年から産金の業がはじまったという記録があり、奉納された円空仏・観音像には「寛文6年」(1666年)という文字が記されている。高さ約11センチの小さな像だが、青年期(34歳ころ)の円空の作風と、広尾の古い歴史を伝え、北海道の有形文化財に指定されている。
百年以上も前に寄進された手水鉢、石燈籠などは苔むして、しっとりと水を含んでいる。通りの太陽の陽ざしはまだ強く、汗ばむほどなのに、巨木に囲まれた境内はひっそり、ひんやりしている。
枝を左右に10メートルも広げたアカマツは、ふるさとを偲んで、だれが植えたのか。ゆうに250年の樹齢を感じさせる。三本の幹がからんだカツラ。ニレやオンコの古木。あの木も、この木も、広尾300年の歴史を、静かに見守ってきた。
おそ咲きのシャクナゲが散りかけている。そのそばで、ナナカマドがもう赤い実をつけていた。
初夏と秋が同居している境内を、プール帰りの中学年が3人、短パンにランニングすがたで通った。
「神社で遊ぶことはあるの」と聞いてみると、
「ない」とそっけない返事。
境内が遊び場であったのは、遠いむかしのことで、いまでは奉納相撲も、めったに開かれないのだろう。
港のシンボル
十勝神社から見えていたみなとも、家がたてこんで見えなくなった。
一枚のおおきな帆に風をはらんで、北前船とよばれた千石船が入港し、立岩や烏帽子岩をかっこうの船がかりとしていた。それらは広尾港のシンボルであったが、もう街のなかから望むことはできない。
岸壁に行くと、釣りびとがひとり、油の浮いたみなとにリール竿を振っていた。
カモメが一羽飛んでいて、釣果を待っている。
やがて20センチほどのウグイがあがると、カモメは当然のようにすぐ近くの岸壁におりて、ひと声ないた。
はるか沖のほうで、浚渫(しゅんせつ)船が土砂をくみあげている。
厳島神社が祭られている二見岩は、もう何年もまえからコンクリートの岸壁にのみこまれ、大きな建物のかげで、ひどく遠慮がちにしていた。
 
■黄金道路
広尾の街をでて、太平洋岸の曲がりくねった道を走る。海はいつも灰色をしていて、めったに青くかがやくことはない。しぶきをあげる波頭もうす汚れ、いかにも荒々しい。
北海道の背骨といわれる日高山脈は、延長140キロメートル。恐龍の背のような地形を、狩勝峠から南へのばしてエリモ岬になだれこみ、しっぽの先を太平洋の荒波に洗わせている。
その岬へとつづく通が、黄金道路。
黄金道路―と呼ばれるのは、広尾から庶野までの31キロメートル。建設費用がばく大にかかったところから名付けられた。工事は昭和2年からはじまり、9年に終わった。総工事費約95万円。当時の物価は、白米が10キロ2円、しょうゆ一升が50銭だった。そんな時代に1メートルあたり28円20銭もの費用がつぎこまれた。
なかでもフンベからビホロの間は、特に難工事で、1メートルあたりの工事費は94円。さながら黄金を敷きつめるほど、多額の費用がかかった。
細い砂利道だった道路はそのご、改良につぐ改良をかさねた。そして快適な観光道路に生まれかわり、隧道と覆道をいくつもつないで、花と荒波のエリモ岬へと向かっている。
白い亀裂
道路ができる以前、砂浜がまったくと言っていいほどない海岸は、通行の難所だった。波打ちぎわまでせりだした断崖絶壁。波がさかまく岩礁地帯の連続で、わずかな手がかりをたよりに岩をへずり、波がひいたすきに、磯を飛んで歩かなければならなかった。
寛政10年(1798年)、エトロフ巡察をおえた近藤重蔵はその帰路、はげしい風雨にあって、広尾で数日間の滞留を余儀なくされた。往路で難所通行の危険を経験していた重蔵は、このときアイヌ人数十人を雇い、ルベシベツからビタタヌンケまで、約12キロの山道を開削した。
道幅は約2尺(60センチ)。広いところでも3尺ほど。ひとがやっと通れるものだったが、これが北海道で最初に作業員を動員して作られた道路であった。
重蔵は標木をたてて、往来するものは一枝の木、一本のヨシでも切りすかして、長く往来のためを心がけるべし―と記した。
また、従者下野源助は道路開削のいきさつを板に彫り、十勝神社に奉納した。その木版は朽ちてしまったが、万延元年に再書された「東蝦新道記」が、北海道の有形文化財に指定されている。
記念すべきその北海道最初の道路も、いまは一筋の踏み跡すら見わけられない。
だが起点となったルベシベツに、「重蔵隧道」と名付けられたトンネルがあり、その横に黄金道路の完成時に建てられた、山道開削の記念碑がある。石碑のまんなかに、白く細い亀裂が走っている。風雨にさらされてできた亀裂なのだろうが、原始林に分けいってつけた、けもの道同然の、険しい山道を見るおもいがする。
コンブ漁
重蔵隧道をぬけてすこし行くと、きりたった崖の下に家があった。
板璧は反り返り、土台がやや傾いている。風雨がつよい海に面していながら、窓が不釣りあいに多い。住居ではなく、漁期だけに住む小屋。番屋とでもいうのだろうか。
人影が見えたので訪ねてみると、昆布選別のまっ最中。40をすぎたばかりと見える夫婦は、音調津に住んでいて、やはり昆布漁のときだけ、6月からみつきくらい住むのだという。
黄金道路ぞいの海岸は、磯つづきなので昆布やフノリ、テングサのかっこうの生育場所となっている。昆布は江戸時代からアキアジとならんで、広尾の海産物の代表格だった。塩気がすくなく、甘味があって、最上品といわれる三石昆布の、もうひとつの産地でもあるのだ。
しかし、ことしは生長が悪いうえに、海が荒れて、漁もようはぱっとしない。
二代目だという小屋の主人は、
「ことしから息子が漁にでるようになったのに、これじゃ拍子ぬけだべな」という。
高校を卒業したばかりに違いない、その息子の姿は、小屋のなかにない。荒れつづきで海にでられないので、町場へ遊びにやったのだろう。
ひまなときは、それでいい。
漁師はいやだ―という子供たちを、たくさん見てきた主人なのである。
「ほら、これ食べてみれ。一等検のコンブだ」
帰りがけにもらった昆布は、黒びかりのする色つやで、厚みがある。噛むといかにも香ばしく、まろやかな甘味が口いっぱいにひろがった。いちど口にすると、やめられないのが昆布。うまいとなればなおさらのことで、一等検の昆布は、みるみるうちに小さくなった。
フンベの滝のちかくで、拾いコブをしているひとがいた。しぶきをあげて押し寄せる波に向かい、おおきな三本の鉤針でできた「まっかい」を投げ、流れコブをひきあげる。天気のわるい日にこうして採った昆布は、束ねて海につけておき、晴天の日に乾燥する。
黄金道路をつけると決まったとき、漁師たちは昆布干し場がなくなると反対した。干し場は縮小されたが、道路はいま、沿岸漁民の生活ときり離せなくなった。
育てる漁業の時代をむかえて、広尾でも養殖がはじまった。沿岸漁業の未来が新しく開けようとしているのか、曇天のなかでフンベの滝に鮮やかな虹が見えた。


<<ページを閉じる>>