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加藤文太郎【かとうぶんたろう】
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●生い立ち 加藤文太郎は明治38年(1905)、浜坂町(現新温泉町)で父加藤岩太郎、母よねの四男として生まれました。家は浜の近くで稼業は漁師でした。外見は温和・寡黙で心優しい文太郎ですが、主体性に富み、一徹で、ひとつの事に熱中すると脇目も振らず熱中するタイプでした。 浜坂小学校高等科を卒業すると、神戸三菱内燃機製作所に製図研究生として入社しました。下宿から会社までの4キロ近くの道を、毎日歩いて通勤していたとか。 大正10年(1921)になると第三学年の副級長を任命されました。また、同時に市立神戸実業補修学校にも入り、2回も優等賞と皆勤賞を受けました。大正12年(1923)には兵庫県立工業学校別科機械科を皆勤で卒業、15年には神戸高等専修学校電気科の課程を卒業し、有能な技師としての知識と技術を磨いていきました。 文太郎は理数系に優れ、趣味もなく仕事一筋でしたが、社内に余暇を遠足で楽しむ目的の会「デテイル会」が結成されるや、たちまちリーダーとして率先、余暇は山歩き一筋に変わりました。それは遠足の域を越えて本格的な登山へ発展していきました。 ●単独行の登山家 足の速い彼は次第に驚異的存在となっていきました。彼の単独行の最初は大正14年(1925)、六甲山脈全縦走をおこなった時でした。この時、家を出てから家に帰り着くまで全部歩きづめで約100キロを歩き続けました。この頃から、歩くことに本格的に興味と自信を持つようになり、県下の国道、県道歩きが始まりました。神戸から浜坂の生家に時々帰っていますが、全行程100キロ以上を何度も徒歩で帰っています。但馬の山はほとんど踏破していました。 大正14年(1925)、日本アルプスに登り、本格登山歴の出発点となりました。当時登山する人たちはどちらかというと貴族趣味で、金と時間の充分ある人たちが多かったので服装も派手でした。文太郎の服装は地味で、しかも手づくりの服でしたし、靴も地下足袋を用い、いつも一人だったので、登山家たちからは「単独行の加藤」「地下足袋の加藤」と呼ばれていました。登山では単独行はタブー視され、ポーターを連れずに登る文太郎は軽蔑的に見られ、山岳会では異色でした。 しかし、文太郎自身は、そういう視線に無頓着で黙々と登山を続けました。そして、冬山単独行を成功させ、次第に有名になり名声は上がる一方でした。 昭和10年(1935)、花子と結婚。娘の登志子も生まれ、幸せな日々でした。 昭和11年(1936)元旦、いつもは単独行の文太郎がこの時は友達といっしょに山にいました。そして、遭難。暖かくなった4月、加藤文太郎の遺体が発見されました。 加藤文太郎の生涯は新田次郎氏の名作「孤高の人」となって出版され、多くの人々に感動を与えています。 |
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