広島信用金庫のなりたち

 広島信用金庫は、昭和20年5月1日に、旧広島市内一円で営業を行っていた9つの信用組合が合併し、現在の広島信用金庫の前身である広島市信用組合としてその第一歩を踏み出しました。
 昭和初期、金融恐慌を契機に中小銀行に対する信頼は失われ、銀行の大規模化が進んでいました。
 こうした状況が資本の集中に拍車をかけ、地元中小商工業者の金融問題を悪化させましたが、これに歯止めをかけることができたのは、相互扶助の精神により成り立っている協同組織金融機関の存在でした。

明治41年5月
広島市で最初に設立された広陵信用組合

 設立時の事務所は、猿猴橋町にあった理事の自宅でした。
 猿猴橋町は、藩政時代から西国街道に連なる町並みとして人馬の往来が頻繁であり、明治以降、隣の松原町に山陽鉄道の広島駅が設置されてからは一層にぎわいました。
 大正11年に事務所を移転、昭和6年には現在の広島駅前支店の場に新築移転しました。

大正3年12月
合併時の中心となった三篠信用組合

 三篠町において、地元民による地元の金融機関として設立されました。
 三篠町は水陸の便に恵まれていたことから、広島の北の玄関口として発展しており、当時、当組合は貯金量において全国有数の規模に成長しました。

 その他の信用組合も明治末期から大正年代にかけて設立された古い歴史を有しており、それぞれ地域の庶民金融機関として、地域の繁栄に貢献すべく活動を行っていました。

 大同合併のわずか3ヵ月後、広島に原子爆弾が投下され、組合長をはじめとする役職員48名の尊いいのちと店舗の大半を失いましたが、4日後の8月10日には当時の本店(現在の横川支店)で預金の非常払出しを開始、零にも等しい状態から再出発しました。
 昭和26年6月には「信用金庫法」が施行され、同年10月に広島信用金庫に組織変更し、現在に至っています。