上田市

画像:上田城

上田城

天正11年(1583年)に真田昌幸が築いた城です。
2度にわたり徳川軍の猛攻をを退けた名城です。

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画像:上田城・真田石

上田城・真田石

上田城東虎口櫓門脇にある直径3mの大石。
真田信之が松代移封の際に運ぼうとしたが重すぎて動かせなかったと伝えられる石です。

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画像:上田城・真田井戸

上田城・真田井戸

真田神社裏にある本丸唯一の井戸。
太郎山や上田藩主居館に通じる抜け穴があるという伝説があります。

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画像:上田城・真田神社

上田城・真田神社

真田昌幸、幸村をはじめ、仙石氏、松平氏など、歴代の上田城主が祀られています。

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画像:上田藩主居館跡

上田藩主居館跡

現在の上田高等学校の正門となっており、真田信之が関ヶ原の合戦の後に居を構えた館です。 土塀、堀は当時の姿を残しています。

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画像:柳町街並み

柳町街並み

なまこ壁の土蔵や情緒あふれる建物が保存されている柳町の町並みは、旧北国街道のかつての趣を今に伝えています。

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画像:砥石城

砥石城

天文19年(1550年)、武田信玄が「砥石崩れ」と言われる敗戦で落とせなかった難攻不落の山城は、翌年真田幸隆が謀略により奪取しました。

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画像:米山城

米山城

砥石城とは尾根を隔てた山頂にあり、砥石城の狼煙台の役割をしたといわれています。

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画像:松尾古城

松尾古城

真田本城の背後を固める城です。 神川と角間川に挟まれ、真田街道沿いに位置する要衝です。 真田幸村も入城したと伝えられています。

画像:真田氏本城

真田氏本城

規模が大きく水利もあることから、真田昌幸が上田城に移るまで本城としていたといわれています。別名松尾城。

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画像:塩田城

塩田城

村上義清と武田信玄の戦いの場となった塩田平の要衝です。 真田昌幸が上田城を築城するまで塩田地方の軍政の拠点となっていました。

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画像:丸子城

丸子城

神川の合戦で窮地に陥った徳川家康は、攻める先を丸子城へと変えて城を守っていた丸子三左衛門を攻めます。 神川合戦の激戦の地です。

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画像:生島足島神社

生島足島神社

「生島大神」と「足島大神」が祀られています。 武田信玄や真田昌幸、信之も寄進した神社で、願文、朱印状、起請文などが残されています。

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画像:別所温泉 石湯

別所温泉 石湯

別所温泉の外湯の一つ。 「真田太平記」では、幸村と女忍者のお江が結ばれた場所として描かれています。

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画像:山家神社

山家神社

奥宮は四阿山の山頂にあります。 真田一族の他、歴代上田城主に厚く信仰された神社で、真田一族と戦没者の御霊を祀っています。

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画像:長谷寺

長谷寺

真田幸隆が開山した真田氏の菩提寺です。 境内には幸隆夫妻と昌幸の墓があり、春には枝垂桜が見事な花を咲かせます。

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画像:長谷寺 真田幸隆・昌幸の墓

長谷寺 真田幸隆・昌幸の墓

真田幸隆は天正2年(1574年)に62才で没し、三男の昌幸は慶長16年(1611年)に九度山で65才で亡くなりました。

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画像:真田氏館跡

真田氏館跡

真田氏が上田城を築城するまで居留していた場所です。 地元では「御屋敷」と呼ばれ親しまれています。 ツツジの名所でもあります。

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画像:芳泉寺

芳泉寺

真田信之の正室、小松姫の墓があります。 信之の松代移封後は、上田城主の菩提寺となっています。

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画像:芳泉寺・小松姫の墓

芳泉寺・小松姫の墓

小松姫は元和6年(1620年)に48歳で亡くなり、その遺骨は鴻巣市の勝頼寺、沼田市の正覚寺と上田市の芳泉寺に分骨されました。

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画像:信濃国分寺

信濃国分寺

第2次上田合戦では、上田城に籠る真田昌幸と徳川方についた信之がここで会見したとされています。 三重塔は国の重要文化財です。

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画像:北向観音

北向観音

名前の由来は、本堂が北を向いているところからきています。 善光寺と合わせてお参りするとさらにご利益があるとされています。

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画像:信綱寺

信綱寺

天正3年(1575年)長篠の戦で討死にした、真田幸隆の長男信綱と、次男昌輝の墓があります。 その後真田の家督を継いだのが、三男の昌幸です。

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画像:角間渓谷

角間渓谷

断崖絶壁が4キロメートルにわたり連なる大渓谷です。 紅葉の名所でもあり「鬼ガ城」、「鬼の門」、「猿飛岩」などの奇岩があります。 猿飛佐助が修業した場所ともいわれています。

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画像:尾野山城

尾野山城

武田氏と村上氏の戦いでは重要な役割を果たしました。 第1次上田合戦の時には真田昌幸も兵を率いて城に拠ったと伝えられています。

画像:矢沢城

矢沢城

真田幸隆の弟、矢沢綱頼の居城です。 第1次上田合戦では綱頼の子の頼定が800の兵を率いて依田氏と戦い、城を守りました。

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東御市

画像:祢津城

祢津城

真田氏の祖先、滋野一族の分家の禰津氏によって築かれたといわれています。 禰津氏は武田氏滅亡後、真田氏の家臣となりました。

画像:白鳥神社

白鳥神社

日本武尊が真田氏、海野氏の氏神として祀られています。 真田昌幸は上田城築城にあたり海野宿の人々を移住させ、「海野町」を作りました。

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小諸市

画像:小諸城・三の門

小諸城・三の門

城下町よりも低い「穴城」です。 第2次上田合戦で大敗した徳川秀忠は、小諸城へ引上げ関ヶ原を目指しましたが、間に合いませんでした。

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佐久市

画像:望月城

望月城

望月氏は南北朝以前から4百年18代続く名族でしたが、天文12年(1543年)に武田信玄により滅ぼされています。 ※リンク先:佐久市「城光院」境内の裏山が望月城です。詳しくはページ内の説明をご覧ください。

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画像:春日城

春日城

鎌倉時代から「滋野三家」の祢津氏の流れをくむ春日氏の居城でしたが、戦国時代には後に佐久を平定した依田信蕃の居城となりました。

画像:岩尾城

岩尾城

佐久の大井氏の築城とされ、室町時代から戦国時代末期まで大井一族5代の居城でしたが、一時期真田氏が居留したともいわれています。

画像:大井城

大井城

石並城、玉城、黒岩城を総称して大井城といいます。 文明16年(1484年)に大井氏が滅亡後は依田氏の主城となり、武田氏に仕えました。

画像:前山城

前山城

佐久に侵攻した武田信虎は、次々と城を落とし前山城を築きました。 その後武田信玄の時代にも佐久の拠点として重要な役割を果たしました。

画像:志賀城

志賀城

天文16年(1547年)真田幸隆は武田晴信とともに志賀城の笠原清繁を攻め、志賀城は8月半ばに陥落、武田氏の佐久郡掌握が完成しました。

画像:入沢城

入沢城

天文9年(1540年)本格的に佐久侵攻を開始した武田信虎は、入沢城をはじめとして佐久の城を次々と落していきました。

軽井沢町

画像:碓氷峠

碓氷峠

真田昌幸による北条氏の信濃侵攻の防御、第2次上田合戦に向かう徳川秀忠軍が通った道としてなど、歴史の舞台に多く登場する峠です。

南牧村

画像:海ノ口城

海ノ口城

武田晴信(後の信玄)初陣の地です。 16歳の晴信は、兵300を率いて奇襲をかけ、勝利しました。 その後も度々武田氏の陣所となっています。

番外編・上州沼田

画像:沼田城

沼田城

天正18年(1590年)に城主となった真田信之は、城郭の大改修を行い、関東では江戸城と沼田城だけの5層の天守閣を建造しました。 信之は沼田城の城下町の整備にも尽力しました。

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画像:名胡桃城

名胡桃城

天正7年(1579年)に真田昌幸が築いた名胡桃城は、北条氏の滅亡による戦国時代終焉のきっかけとなる地として、歴史に名を刻んでいます。

画像:岩櫃城

岩櫃城

天然の要害に囲まれた岩櫃城は、真田氏の上野進出の拠点として重要な役割を果たします。 もし武田勝頼が岩櫃城に来ていたら歴史が変わっていたかも・・・。

画像:正覚寺・小松姫の墓

正覚寺・小松姫の墓

沼田城主の真田信之を支えた小松姫の死は、「我が家から光が消えた」と信之を大いに落胆させました。

番外編・越後春日山

画像:春日山城

春日山城

上杉謙信、景勝の居城です。第1次上田合戦では、真田昌幸は越後の上杉景勝に援軍を要請し、人質として真田幸村を越後に送りました。

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画像:上杉謙信像

上杉謙信像

12年間、5回に及ぶ川中島の合戦では、真田幸隆、昌幸父子は武田方で戦いました。 春日山城址にある上杉謙信像は、信濃の川中島を見つめています。

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