上田城
天正11年(1583年)に真田昌幸が築いた城です。
2度にわたり徳川軍の猛攻をを退けた名城です。
協力:上田市マルチメディア情報センター

真田本城の背後を固める城です。 神川と角間川に挟まれ、真田街道沿いに位置する要衝です。 真田幸村も入城したと伝えられています。

断崖絶壁が4キロメートルにわたり連なる大渓谷です。 紅葉の名所でもあり「鬼ガ城」、「鬼の門」、「猿飛岩」などの奇岩があります。 猿飛佐助が修業した場所ともいわれています。
詳しくはコチラ!
武田氏と村上氏の戦いでは重要な役割を果たしました。 第1次上田合戦の時には真田昌幸も兵を率いて城に拠ったと伝えられています。

望月氏は南北朝以前から4百年18代続く名族でしたが、天文12年(1543年)に武田信玄により滅ぼされています。 ※リンク先:佐久市「城光院」境内の裏山が望月城です。詳しくはページ内の説明をご覧ください。
詳しくはコチラ!
鎌倉時代から「滋野三家」の祢津氏の流れをくむ春日氏の居城でしたが、戦国時代には後に佐久を平定した依田信蕃の居城となりました。

佐久の大井氏の築城とされ、室町時代から戦国時代末期まで大井一族5代の居城でしたが、一時期真田氏が居留したともいわれています。

石並城、玉城、黒岩城を総称して大井城といいます。 文明16年(1484年)に大井氏が滅亡後は依田氏の主城となり、武田氏に仕えました。

佐久に侵攻した武田信虎は、次々と城を落とし前山城を築きました。 その後武田信玄の時代にも佐久の拠点として重要な役割を果たしました。

天文16年(1547年)真田幸隆は武田晴信とともに志賀城の笠原清繁を攻め、志賀城は8月半ばに陥落、武田氏の佐久郡掌握が完成しました。

天文9年(1540年)本格的に佐久侵攻を開始した武田信虎は、入沢城をはじめとして佐久の城を次々と落していきました。

真田昌幸による北条氏の信濃侵攻の防御、第2次上田合戦に向かう徳川秀忠軍が通った道としてなど、歴史の舞台に多く登場する峠です。

武田晴信(後の信玄)初陣の地です。 16歳の晴信は、兵300を率いて奇襲をかけ、勝利しました。 その後も度々武田氏の陣所となっています。

天正18年(1590年)に城主となった真田信之は、城郭の大改修を行い、関東では江戸城と沼田城だけの5層の天守閣を建造しました。 信之は沼田城の城下町の整備にも尽力しました。
詳しくはコチラ!
天正7年(1579年)に真田昌幸が築いた名胡桃城は、北条氏の滅亡による戦国時代終焉のきっかけとなる地として、歴史に名を刻んでいます。

天然の要害に囲まれた岩櫃城は、真田氏の上野進出の拠点として重要な役割を果たします。 もし武田勝頼が岩櫃城に来ていたら歴史が変わっていたかも・・・。

沼田城主の真田信之を支えた小松姫の死は、「我が家から光が消えた」と信之を大いに落胆させました。