- トップ
- 小松川信用金庫について
- 小松川信用金庫の歴史
小松川信用金庫の歴史
地域を想い、地域を支える。そして地域と共に。
大正7年の創業から今日までの歩みをご紹介します。
年表
| 年 | 月日 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1918年 (大正7年) |
11月11日 | 有限責任小松川町信用購買組合 設立 |
| 1932年 (昭和7年) |
2月13日 | 購買事業の廃止に伴い有限責任小松川信用組合に名称変更 |
| 1945年 (昭和20年) |
3月10日 | 東京大空襲で組合事務所が罹災 |
| 1950年 (昭和25年) |
2月28日 | 中小企業等協同組合法により小松川信用組合に改組 |
| 1952年 (昭和27年) |
9月4日 | 信用金庫法により小松川信用金庫に改組 |
| 1968年 (昭和43年) |
11月11日 | 創立50周年 |
| 2001年 (平成13年) |
4月2日 | シグマバンクグループ業務提携 |
| 2018年 (平成30年) |
11月11日 | 創立100周年 |
幾多の困難を越えて
小松川信用金庫の成り立ち
大水害あとの中川大橋、奥は大島・亀戸方面〈大正6年〉 江戸川区郷土資料室蔵
初代組合長
川野 濱吉 氏
大正6年に発生した高潮(大正6年大海嘯(だいかいしょう))により、江戸川区は南部を中心に大きな被害を受けました。被災した地域の方々へ日用品を安定供給することを目的として、大正7年11月11日に当金庫の前身である「小松川信用購買組合」が設立されました。当時の小松川町の急速な商工業化や都市化への資金需要に応え、当金庫は成長してまいりました。
戦後の焼け野原からの再出発
昭和20年頃、東京大空襲で焼け野原となった小松川 江戸川区郷土資料室蔵
4代目組合長
初代理事長
鈴木 文太郎 氏
昭和20年3月の「東京大空襲」では10万人以上が死亡し、罹災者は100万人を超えたと言われ、小松川地区は高等女学校を残し、焼け野原となりました。当組合事務所も全焼し、焼け残ったのは重要物を保管している金庫ただひとつでした。金庫の中にあったのは国債と預金台帳だけでしたが、当時の鈴木文太郎組合長はこの国債を日本銀行で換金し、幸い被災を免れた自宅を仮事務所として、被災者からの預金の払い戻しに応じました。
小松川信用組合が預金の払出しに応じていることが人から人へと伝わり、連日対応に追われましたが、やがて払い戻しが完了すると、手元に残った16万円の現金を内部留保としました。終戦後、他の多くの信用組合が補償の打ち切りにより多額の戦時国債等を抱えて再建に苦しんでいた中、当組合はこの16万円の内部留保のおかげで、混乱する金融環境をなんとか切り抜けることができました。被災を免れた他の信用組合と合併したほうがよいとの声もありましたが、鈴木文太郎組合長は自主独立路線を唱え、小松川信用組合の存続が決定されました。
幾多の災害や戦災からの復興
昭和24年9月1日キティ台風時の平井駅南口冠水被害 江戸川区郷土資料室蔵
当金庫は幾多の災害や戦災からの復興の歴史を歩んできました。この歴史から、これからも地域を想い、地域を支えることを使命として、いざという時に地域を支えられるように堅実経営に努めていくことが、私たちの役割だと考えています。